今日も頭がイタい…

うん…、どう転んでも人生ハードモードみたいです……

母について考える

実家に帰ったときはどうも毒づきかたが増してしまう。
すみません。でもなにか発信しないと精神状態保てないんです。

実家に帰ると両親の問題に直面する。

僕の人生の足を引っ張っているのは母と言って過言ではない!

と思っている。

息子の僕が言うのも可笑しな話だが、父と母は育った家庭環境も親戚関係も複雑だ。

なので、頼るところがないという八方ふさがりの環境にいる。

今回は母について書いていこうと思う。

母について

・韓国の全羅北道という田舎で生まれる。

・小さいころに両親が離婚、ソウルに移り住む

(原因:祖母が統合失調症を発症)

・良くは知らないが兄弟が別々に親戚に預けられてたみたい

・ちなみに親戚は、結構名家?(曾祖父が韓国の歴史の教科書にのる人だったよう。

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・名家のおかげで、有名なお嬢様学校に通っていた

・職は、国家公務員で秘書をやっていた

・30歳のときに日本の資産家のもとへ嫁ぐ(このとき親戚との縁切ったみたい)

・親族がとても嫌いらしく、縁を切った。

・資産家と別れる(母31歳)

・父と結婚(32歳)

・僕生まれる(32歳)

・とてもプライドが高くて自分の思い通りにならないと気が済まない。

・性格の問題で、様々なコミュニティーになじめない。

・ギャンブルなどもよくやっていた。

・料理は少しする。

・昔から引きこもりがちだった。

・癇癪持ち

・金使い荒い

・キレるととても暴力的になる

・僕が10歳ごろから母(44歳)に統合失調症の気が現れる。

・46歳の時に日本人に帰化

・僕が13歳の時から引きこもりになる。

・僕が18歳のときに事件を起こし、統合失調症と診断され入院(母(51歳))

・母52歳、54歳のときに乳癌発症

・現在、58歳で家で老人のように部屋から一歩も出ずに療養中

 

母のことを書くとため息しか出てこない

小さいころから自分以外の人間をこけおどしにして罵倒するということをよくしていた。

それは、夫である父や息子である僕に対してもそうだった。

父には、「あなたは何かがおかしい」、「あの子(僕)できそこないなのは、あなたのせいよ!」とよく言っていた。

僕が何か失敗をすると「私を困らせたいんでしょ!!」、「あなたみたいな子ども生んだのが間違いだった。」、「あなたは、何度も同じ間違いをするから犬と同じで叩いて体で覚えさせないと覚えないのよ!」いまだによく浴びせられた、罵倒だと思う。

小さいころは、僕は母の機嫌を取ることで一生懸命だった。

それでもやってもやってもできないことが多かった。

そのたびに母には殴られてた。

ただ僕が手がかかる子というのも事実で子どものことから病弱でよく、入退院を繰り返していたし、僕が広汎性発達障害(以前の日記より)ということもあってよく失敗する子だった。

なので、育児に疲れていたというのもあると思う。

僕が幼いころから、僕の面倒をよく父に押し付けて、パチンコに勤しんでいた。

僕が小学校に上がると、家をよく空けて、毎日のようにパチンコに行っていた。

父に聞くと当時、貯金が1/3までに減らしたらしい。

パチンコで負けるたびに父に「あのパチ屋は私に勝たせないから文句を言いに行ってこい」ということをよく聞いていた。

だが、勉強面は教育ママで、良く昔から勉強させられていた。

ただ、結構行き過ぎていて、90点ほどの点数でよく怒られたのを覚えている。

兎に角テストが帰ってくるたびに怒られると怖かった思い出がある。

さらに外面はよかった。

学校の行事には積極的に参加していたし、小学校の行事によく手を貸してくれていた。

外面は、いい母だった。

また、僕が中学受験することになった時は、なぜが僕以上に勉強をして僕に教えないと気が済まないという人だった。

よく塾帰りに夜中まで勉強させられたし、夜中たたき起こされたりもした。

ただ、自分の教えたところができなかったりするとすぐ癇癪をおこして、キレる始末。

受験日の朝に僕が気に入らないことをするとよくそんなことするから「今日の試験は落ちる」と罵声は浴びさせれたものだ。

ちなみにこのころから「私の後を誰かがつけている」などをよく言っており、統合失調症の気が出ていた。

僕はそんな母が嫌で、中学からは学校に一切関与してほしくないといった。

幾度ない話し合いにより、母は学校のことに対して何もしないと了承を得た。

すると本当に母として何もしなくなった。

学校の行事や親に見せる書類はすべての僕が父や母の名前を書きハンコを押して対応していた。

ただ、学業だけは別で、僕が英語で落ちこぼれたときに、英語の先生から母がきつく言われたらしく。

母はそれが嫌だったらしく、英語に対しては昔のような対応をしていた。

当時、毎日のように21時まで残されて、大量の宿題を出されていたのもかかわらず、夜中まで起こされて、ひたすら英語をやらされていた。

そんな毎日が嫌で、英語が僕はますます嫌いになって、嫌気がさして、答案を白紙で出すようになった。

母は癇癪を起し、よく先生には呼び出された。

たび重なる面談の結果、父や先生に押してもらい僕の勉強には一切口出ししないという了承を母から得た。

すると母はもう生きがいが無くなったのか、部屋に引きこもるようになった。

毎日、家事もしない、昼夜逆転をする。

そんな生活を4年間続けた。

このときに、精神状態はさらに悪化、「誰かが私を監視している」といい、家のガラスすべてを布で覆い始めた。

引きこもりを始めたころから僕は医学書で母が統合失調症の初期症状であることを調べ父に病院に連れて行ってくれと頼んでいたが、父は聞く耳を持たなかった。

さらに毎日のように酒におぼれ、アル中になっていた。

僕は当時受験勉強をしながら、どうにかして母を病院に入院させようと病院を回って、病院を受診する手続きまでした。

だが、父は「お母さんはゆうこときかん!」というだけで僕がやった手続きをすべて無駄にした。

そんな生活も僕が大学進学をするときに終わりを告げた。

母が私も家を出ると言い出したのだ。

母は自分の気が済むように僕の生活をコーディネートしたかったようだ。

借りたボロアパートも気に入らず、買っても家賃倍のマンションを借りて僕に住まわせようとした。

僕がいうことを聞いてくれないから、僕の家の合鍵を買って作り僕の部屋に勝手に入るようになった。

僕はそれが嫌なのと家の経済状況を知っていたので、必至で母を福岡に返そうと不動産屋へ交渉し、解約しようと思っていた矢先、事件が起きた。

母が高速道路で事故を起こしたのだ。

それもなぜか鹿児島で、車を高速道路でぶつけたのだ。

そして警察に精神状態おかしいことがわかり父に連絡が言った。

そのときになって父はようやく、母を病院に連れ言ってくれた。

事故の後処理や、マンションの解約費用や家出中の費用などもすべて含めて200万ほどかかったらしい。

僕は、大学の1年の後期から学費だけでなく全て自分の稼ぎでたべていかなければならなくなった。

そして大学2年のときに母が癌になった。

父からは、勝手に奨学金を使われた。

金がないと父が日に日に疲れていくのがわかった。

父からは、兎に角自分で何とかしてくれと言われた。

僕は週6でバイトをして、深夜勉強するという生活が始まった。

そこから母は変わらず、自宅療養を続けている。

母は病気になって丸くなった。

そして弱弱しくなった。

僕に対して、罵倒ではなく、縋るようになった。

そんなゲンキンな母が死ぬほど嫌いだ。

母が癌になったとき、まず出た感情が、やっと母がいなくなってくれるという嬉しさだった。

でも、結局は二回の手術に耐え、生きている。

僕がその分必至で頑張っていたのも知らない。

母からの電話を今でも気分が悪くて取れない。

癌の時母から、僕が心配していると思って父の電話から電話をかけてきたとき、「私は大丈夫だから心配しないで」と一方的に言われたことをよく思い出す。

僕は最低な息子だと思うが、心配なんて微塵もしていなかったし、むしろなんでしぶとく、生きるんだ僕の人生の足をどれだけ引っ張り続けたら気が済むのだ、という感情しか湧いてこなかった…

僕は母に対しても父に対しても最低な息子だと思う。

でも母の面倒は見たくない。

生んでもらって育ててもらってそれは身勝手だろうと思われる方も多いかもしれないが…

ただ、子ども将来をつぶし、足を引っ張り続ける親もこの世の中には多いということを知ってほしい。

父がいなくなったらということをいつも考える。

母をどうやって面倒見ればいいのだろう?

 僕は母と生活した間違くなく、母を殺すと思う。

僕は、殺人犯になりたくない。

 母には、消えてほしい。

韓国に戻ってほしい。

祖母が療養している田舎で、ひっそりと余生を生きてほしい。

仕送りはできる限りする。

でも僕の人生にもう関わらないでほしい。

僕の愚痴は以上です。