今日も頭がイタい…

うん…、どう転んでも人生ハードモードみたいです……

父について考える

家を出て父と喧嘩することが増えた。

別に仲が悪いわけではないが…

母もだが、僕の他人から指摘される歪んだ価値観は父の影響もかなり受けている。

父について

  • 戦後すぐ福岡で生まれる(いわゆる生粋の博多っ子だ)
  • 6人兄弟の5番目として生まれる。(三男である)
  • 小学生のころからアルバイトをしていたらしい(戦後すぐの話なので、その頃は小学生でバイトをしていたらしい)
  • 高校時代は不良で、高校卒業後、即就職したみたい。
  • 会社員時代は、高卒でありながら、某有名大学の派閥の企業に入り、尋常じゃないほどの学歴差別を受けたみたい
  • 40歳前後まで3度の転職をし、全国を転々、40を境に地元福岡に戻り、起業する。
  • 44歳母と出会い。即結婚
  • 45歳のとき、僕生まれる
  • 55歳のとき、無理な食生活がたたり狭心症や血行障害を患う
  • 60歳のとき、自分の会社が倒産
  • 65歳のとき、血行障害で倒れ、緊急手術となる
  • 70歳現在、統合失調症の母の介護をしながら、年金で細々と生活中

人格

  • とにかく、新しい文化を否定する。(幼いころアニメを見ても、マンガを読んでも、ゲームをしてもすべて「そんなバカチンなものしてどうする!」と呆れられた)
  • 電子機器などにとても弱い(小学校のころから家のPCの設定や家電系はすべての僕がやっていたというか僕しか使っていなかった)
  • テレビはニュースしか見ない、でも教養ないから深堀ができない。(中高時代からニュースなどの事柄の歴史的背景について意見を求めたり、話しかけたりしても、俺は知らんと言われるだけ、会話をしても生産性ない…)
  • 昔の価値観でずっといる。(子どもは親のために働くものと散々言われた)
  • 食生活は、酷い。(50近くまでジャンキーなものしか食べておらず、週のほとんどを飲み会で過ごす…)

家族構成

  • 父(僕の祖父):病弱でまともに働けない
  • (僕の祖母):パートに追われる日々
  • 長男:中学卒業後即自動車会社に就職するも不慮の事故で亡くなる
  • 次男:一家唯一の大卒、高校も大学も夜間で自活しながら頑張り某有名家電メーカーに就職するも家族に嫌気がさし、婿養子に入り、縁を切る。
  • 長女:中学卒業後、すぐ嫁ぐ
  • 次女:中学卒業後、すぐ嫁ぐ
  • 三男(父)
  • 四男:よく知らないが、高校卒業後姿を消す。現在まれに連絡が来るらしい。

母まではいかないが、父に関してもため息がとまらないことが多い…

世間の人ができることがほとんどできないのだ…

いまだに連絡は電話と郵便(最近やっとCメールを見れるようになった)

先日まで新しい住所を教えるだけでも、漢字がわからんから紙で新しい住所を書いて郵送で遅れといわれた。(昭和ですか…)

いまだに一人で戦後高度経済成長期の日本を生きている。

生きた化石である。

仕事が美徳、子は親や家族のためにすべてを捧げるものという考えが強い。

上にも書いた学歴差別を受けたことに対しての学歴コンプが酷い。

昔から、あいつは何大卒だからバカだということが発言が多かった。

昔からそれも聞いて、父に認められたいという気持ちが強く。

少しでも学歴のいい大学に行きたかった。

父に植え付けられた学歴コンプ

ちなみに父が強烈な学歴差別を受けた大学は、私立最高峰のK大学なのだが、大学受験の時にあそこを受けたいというとても嫌がられたとの今でも覚えている。

なので私立で有名大学は父の中でK大学ではなく、W大学一択なのだ。

ちなみに国立大学至上主義で、早慶(もう面倒なので出します)以外の私大は認めてくれなかった。

高校時代の三者面談で、息子さんは英語国語に致命的なハンディがあるので、国立は辞めて、早慶を目標にして、無理だったら上智や理科大にしたらいかがでしょうか?

英語だけならまだ間に合うかもしれませんと再三言われた。

というか、早慶以外は学校で推薦があり、数学科を志望しているのはお宅のお子さんだけなので、推薦枠あげますよと言われても、父はこの子は、国公立か無理なら福大(福岡の私大)にやります。(あと早稲田だけ考えないことはないですが基本国公立で…)

の一点張りだった。

早い話、お金がないと学校にも息子にも言いたくなかったんだと思う。

そんなこんなで、僕の大学受験の選択肢は、早稲田か福大か国公立しかなかったのだ。

ちなみに国公立は父の中で神格化されていた。

国公立なんてお前が受かるわけないと言われ続け、笑われた。

アホなことを言うのは辞めて、福大に行け!と再三言われた。

ちなみに福大以外の地元私大はダメ!

「福大なら家から通えるし、授業料は死ぬ気でバイトして払って、就職も福岡でせれ!」

とよく言われた。

いくら模試の結果を持って行っても、先生に指定校推薦を進めれても(実際3,4回勧められた)お前はバカだからダメ、寝言は寝ていえと言った感じだった。

ちなみに大学受験の結果は、地元から割かし近い、国立に受かった。

偏差値52,3のごく普通の中堅国立理系である。

ちなみにだが受かったら受かったでいろいろ言われた。

「○大は、お前みたいな中途半端な人間にはお似合いたい!」

と言われた。

ちなみにこれは中学受験の時も言われた。

「○○中学は、お前みたいな中途半端な人間にはお似合いたい!」

ま~当時心身ともに疲れ切っていたので、言い返す気もなかった。

やっと父が認めてくれたときが院の時である。

院試は、旧帝大を受けた。

そのときも、父からは、実家に帰ってゆっくり就活するか、引き続き自分で何とかするなら院に内部進学して、ゆっくり考えろと言われた。

結果、合格した時は、単純に褒めてくれた覚えがある。

ま~すぐ授業料や生活費は自分で何とかしろよと言われたが…

でも、入学金は出してやると言われた。

 他の親とは違う価値観

父は、戦後すぐの生まれの、流行り物や電子機器が何もわからない堅物、母は、韓国人のお嬢様育ちという環境で育ったので、幼小中通して、同級生と話が合わなかった。

というか流行りのものなど情報はすべて同級生やテレビ、自分で本や雑誌などで学んだ。

例えば、小学校の頃に流行っていたものはすべて友達伝いに知ったし、大学受験などの情報や勉強法などは自分で手探り探した。

ちなみにこれがあったから、院試や就活の時に自分から積極的に動くことができたと思うのだが、高校時代のとき友達が親とメールでコミュニケーションを取ることに対し(今はLINEかな)、うちの親もできたらなと何度思ったことか…

また、父は昔の言葉をそのまま使っていたので、それでもかなり苦労した。

「ベルト」のことを「バンド」と読んだり、酷い時には、差別語認定されている言葉を平然と公共の場で使う。

ポラロイドカメラ」を「バカ○ョンカメラ」と言ったりしていた。

ちなみに「バカ○ョンカメラ」は妻が韓国人なのによく現在まで平気に使っていると思う。

公共の場で大の大人が平然と差別用語を使うことに対して、常識がないと感じ、何度も父を叱った覚えがある。

 実家を離れてからの父との関係

大学時代から父とよく経済面でよく言い合いをするようになった。

大学進学当初は、「何も心配せんでいい。卒業のことだけ考えろ」と言われたが、心配なので第一種奨学金を取った。

見事に不安は的中し、2か月後には「授業料は自分で払ってくれ」、一年後には、「何とか自分で生きてくれと言われた」

ま~大学一年の時の仕送りも、僕名義の学生ローンで借りたお金の余り、バイトを始めてからは、仕送りという名目で僕のバイト代をそのまま振り込んでいただけだったので、変わらないのだが…

何度も喧嘩した。

僕も悪い、大学進学時に授業料など金回りをきっちり調べて、授業料免除を出せばよかったし、大学に進学してから一年半は腐っていて単位を落としまくり、授業料免除の申請が出せないレベルになっていたからだ。(反省して、院からは授業料免除の申請をだした

教員免許取得に関してはとく口論になった。

「無理して留年するかもしれないのに単位取らんでいい。卒業だけしてくれ!」

と何度も言われたが、田舎の国立で就活に多大な費用がいる状況で、毎日バイトとゼミの勉強で公務員試験などの勉強をしている暇もない状態でどう将来を考えろいうのだろうか?

という状況だった。

父は、「卒業だけして、何とかせれ!」と言うだけで金銭的に支援はほぼなかった。

 詳しくは、学部の入学金最初の前期の授業料、院の入学金と、ほんとに死にそうな時だけ仕送りをくれたので、のべ100万程度は支援してくれたのだが、逆に親が厳しい時に学部時代から親に100万ほどあげている(勝手に口座から引き落とされたというのが正しいのだが…)ので、ほぼ自活していたのだと思う。

 社会人になってからの父との関係

院を卒業して、IT系の就職をしてからというもの、まず一言目に「俺は、お前が何をやっているのかわからん!」とただ言われるようになった。

それに対比するように僕も「父さんに僕の仕事内容を伝えるのは、原始人に経済の仕組仕組みは話すようなものだから無理」と返すようになった。

それでも親としては気になるようで「どんな仕事をしているのか、実家に帰ってきたときに教えてくれ」と言われ、僕が説明する準備をしていっても説明しようとしても「もうよか!、俺は何も言うことがない」と言われるだけで最近は実家に帰っても平行線の日々である。

 まとめ

父に関しても母に関しても愚痴を散々に書いたのだが、父に関しては、かなり感謝している、よく金のことで喧嘩するのでだが、いやいや言いながらよく面倒を見てくれていると思う。

今回の記事の趣旨は愚痴を言って共感してもらいたいとことが人一倍あるだけなのでただ書いています。

愚痴を終わります。

病状報告(ナルコレプシについて)

ナルコレプシについて進展があったので、報告しようと思う。

現状整理

  • 某病院の精神科に通院しており、それぞれ発達障害と睡眠の専門医に掛っている。
  • 転職のエージェントと相談し、今後はの転職活動はナルコレプシと広汎性発達障害をオープンにして活動していこうという結論に至った。

近況報告

一昨日(11/18)に発達障害系で通院したところ、医師に転職活動でナルコレプシと広汎性発達障害をオープンにするなら、ナルコレプシの治療はすぐ始めて、どれだけ効果が出るかを把握したうえで上で転職活動をした方がいいとアドバイスをもらい、薬代も最大1万程度だから安心したらと言われた。

翌日(11/19)に睡眠系で、受診し、今後の治療方針を話し合うこと

ナルコレプシの治療の方針

薬は何にするか?

を選べると言われた。

昔はリタリンしかなく、最近はモディオダールをすすめることが多いですと言われる。

ある程度ネットで調べていたので、とりあえず、モディオダールを処方してもらうことに

自立支援は申請できるのか?

まず自立支援について(自立支援医療制度の概要 |厚生労働省

端的に言うと、特定の病気は地方自治が3割に加えて何割か負担しますよ。

という制度だ。

そして、ナルコレプシは申請が通るかどうかわからないとのことだった。(http://www.jssr.jp/data/pdf/Narcolepsy_cq_ippan_20100726.pdf

ということで、広汎性発達障害の方で申請をして、治療をすすめていくことに

薬の料金

事前にネットで調べても高額(2~3万)と書いてあり、11/18の発達障害系で通院で一万程度と言われたので、カツカツな中だいぶビビッていたものの

会計を済ませると、ひと月の薬代が受診料も含めて4000円程度だった。

だいぶ安心した、今後もとりあえず、やっていけそうだ。

今後の治療方針

とりあえず、モディオダールで様子を見つつ、自立支援の申請が通り次第、脳のMRIを取るそうだ。

MRIを取る理由

ナルコレプシには、原因がわかる場合とわからない場合の二種類あるそうだ。

  • 原因がわかる場合:詳しくは知らないが脳で睡眠を司る部分がうまく機能していないということがMRIでわかるらしい。
  • 原因がわからない場合:文字の通り理由が原因不明ということらしい

とりあえず、近況報告を終わろうと思う。

ブラック企業での出来事3

配属されて(6月)

当時、僕が在籍していた会社では、配属が普通の会社よりひと月早かった。

恐らく理由は、他のパートナーや下請け会社の新人より実務経験を多く積ませて、できる人というイメージを持たせるためだろう。

配属プロジェクトは、何かしら問題になりそうなので書かないが、システムの保守運用プロジェクトに回された。

僕在籍している会社のパートナー会社の新人とも合わせて3人で配属された。

配属プロジェクトは大きく分けて二つに分かれており、僕は片方のプロジェクトに一人で配属された。

配属当初は、上が忙しく、さらに回す仕事がなく。

すぐにもう一方のプロジェクトに回されることになった。

ただ、その一方のプロジェクトはセキュリティーが厳しく、オフィスに入るのに承認に一月かかると言われ、6月は宙ぶらりんの期間となった。

ただ、それでも洗脳報告書をせかされたり、業務の内容も誰も教えてくれないという状態で、定時帰りなどは一度もなく、早くて20時、遅くて23時といった生活だった。

兎に角きつかった内容が毎日の日報で、日報を上司にレビューを受け何度も手直しする。

という作業ばかりやらされた。

今考えると無駄の極みである。

ちなみにだが、もちろん残業代はでない!!!!

仕事内容

SEと聞いて世の人たちは、「システムエンジニア」→「パソコンのエンジニア」→「プログラミング」という考えの人が多く、SIerの人はプログラミングをしているというのが世間の一般的イメージだろう。

それは、間違えである。

SIerの人はごく一部しかコーディング(プログラミング)をしない。

プログラミングをバリバリ書くのはWeb系よりの人たちだ。

SIerでも最下層の工程や社内で閉じているプロジェクト、社内開発を行っている企業などはコーディングをする。

だが、僕のいるプロジェクトは、保守・運用。

コーディングは機能追加の時しかない…

それ以外はほぼテスト、実際僕の在籍中の報告書以外や日報以外の仕事内容は8割がテストだった。

テストというのは、書けば長くなるので書かないが。

システムがしっかり動いるか確かめる、ゲーム会社などでいうところのデバッグプレーである。

7月から

ようやくもう一方のオフィスの承認おり、正式にもう一方のプロジェクトに配属された。

テストの日々、6月からもだが、ほぼ毎日テストだった。

  • 毎日同じことのくりかえし、頭が痛くなる作業
  • 更に意味不明なテストケース(テストの仕様書

で頭が痛くなっていった。

この日記で散々書いているが、昔から単純作業が苦手で、

  • スピードが遅い
  • ミスが多い
  • テストの概要が理解できない

といったことが多かった。

さらに、気絶するのように仕事中に寝てしまう。

ということがあり心療内科を受診した。(詳しくは、今の僕の現状と発達障害について - 窓際日記

ということがあり、まわりに呆れられ始めていた。

また、新人研修の一件で会社の社員に敵意を持っていたため、基本会社の人と飲みに行くことをあまりしなかった。

会社の方針が技術よりも人付き合いで、

  • 上司を飲みに誘わないとキレられる。
  • 飲み会で仕事の話をしないとキレられる。

ということや業務改善が全く見られず、OJTの上司に毎日のように日報でキレられた。

キレている最中も、睡魔がとまらず

対策の欄に睡魔がとまらないのでどうにもならないと半ばキレ気味に書いたところ

 OJT担当に完全に見捨てられた。

ブラック企業での出来事4へ

ナルコレプシの診断から退職について

2015年11月11日この日、僕はナルコレプシと正式に診断されました。

ナルコレプシとは

ナルコレプシ(narcolepsy)とは,日中において場所や状況を選ばず起こる強い眠気の発作を主な症状とする脳疾患(睡眠障害)(ナルコレプシー - Wikipedia)

 

眠気の強さは、健康な人が48時間眠らなかったときに感じる程度だといわれています。

【突然眠ってしまう病気「ナルコレプシー」】FINE-club〜健康で元気な暮らし情報

 

ナルコレプシ診断までの経緯

遡ることADHDの診断をされた2014年7月のこと、不可解な居眠りはナルコレプシが原因だと思い心療内科を受診したので、最終的に自分の予想は的中したということである。

 

それからADHDで悩むことになり、現職で正式に検査。

結果として、

ADHDとはっきりはわからない、もっと専門の病院に行けば正式にどちらかわかるかも

・広汎性発達障害(PDD)と診断される。

・ナルコレプシの可能性が高い

という診断が一か月半前(10月初旬)の診断でした。

 

ナルコレプシの検査

反復睡眠潜時検査という検査を受けました。

費用:15000円程度

血液採取の提供で5000円バック

実質:1万円

検査内容:丸一日朝から夕方まで、30分の仮眠、二時間の起きるということを5回繰り返し、脳波を図るという検査

検査の結果、入眠時レム期が2/5あるとナルコレプシだと言える。

結果:5/5入眠時レム期あり、極めて強いナルコレプシだと診断される。

医者からはそく検査と薬を処方したいと言われたが、薬が高額といわれ、減給時なので処方を断念。

会社との話し合い

会社には、検査結果を即伝えた。

すると会社と翌日話し合いの場が設けられた。

僕の要求

  • 減給された給料を上げてくれとは言わないでも責めて治療費を負担してくれないだろうか?
  • 治療費の負担がダメならば、一時的に副業を認めてくれないだろうか?
  • 以上の二点が満たせない場合は僕はもう次の転職先を探します

という、提案をしたところ

二点は無理だと言われる。

無理だとはわかっていたが、やっぱりかと思う。

ただ、転職先を探すのなら、年内までの給料は出すから、出社せず、これから転職活動に専念してくれという打診を受けた。

正直、期待よりは、退職に対して譲歩してくれた。

そう感じた。

なんだかんだで会社には会社の言い分がある。

前職のブラックのようなむちゃくちゃな理論じゃなくて…

ただ、譲歩してもらっても状況は厳しいまま、とにかく年明けには働けるようにしなくてはと思いつつ、人生3度の目の就職活動が本格的に始まりました。

ブラック企業での出来事2

入社2日目からの洗脳

入社式は,普通に終わった。

ただ、教育担当の紹介があったときに,教育担当の方がムスッとしていたのを覚えている。

新人教育が厳しいと聞いていたので,そのように振舞っているのだろうと察しはついた。

二日目の日報の提出報告から地獄は始まった。

二日目の日報の提出の時に明らかに提出不可能な時間で提出しろと連絡がきた。

連絡が来て誰も指導員に遅れるという連絡をしなかった。

提出時刻ぴったりに「なんで、誰も連絡しないんだ!」という怒鳴り声から始まった。

社会人としてホウレンソウ(報告・連絡・相談)は基本中の基本、納期が遅れそうなら、事前にスケジュールの調整を図らないとクライアントからの信用を失う。

というもっともらしい回答だった。

僕もそれはそうだと思い、とりあえず大人しく叱られることにした。

4時間ほど叱られただろうか…?

それが二日目のことだ。

ちなみにその会社の定時は18時、入社式の退社時間は18:30

二日目の退社時間は21:30だった。

もちろん残業代は出ない!

会社で求められている人材

会社で求められている人材というのは会社ごとによって違う。

その会社が求めるの頭の良さでも生産性の高い人間でもなくリーダー力だ。

そこの会社では、会社で定めたリーダー力を図るために自己啓発系の提出書類があった。

その書類は、簡単に言うと社風の刷り込み洗脳を主とした内容で仕事の出来よりも書類の出来で給与や出世が分かれるというものだった。

この自己啓発系の提出書類を社員は報告書と呼んでいた。

詳しく書くと面倒なので、省略する。

この報告書の概要を聞いて幾ら、頑張っても僕はその人間にないれないと悟った。

新人合宿

これは研修中に一度ある地獄だった。

内容は技術研修と聞かされているのだが、基本はわけのわからない課題を与えられ、上司にキレられながら聞き課題をこなすという内容

課題をこなすというの聞こえはいいが、簡単に言うと会社が定めるテンプレートで上司役である社員に怒鳴られ切れられながら必死に頭を下げて聞き出し、種類を作成するという。

ただの修行…

頭なんて要らない。

上司に媚を売って頑張って気に入られて課題をやってもらえという内容で、無駄に二日間の徹夜を強いられる。

しかも、合宿後は飲み…(強制ではないが断れない雰囲気)

地獄の研修の日々 

研修中は毎日が地獄だった。

マナーの内容で怒られ(これはちなみに良かった)、技術研修は杜撰…

一度もまともな開発をされてもらえなかった…

技術研修以外は報告書の作成に当てられ、毎日21時退社から勉強をする日々だった。

特に僕は報告書の出来が悪く、5月はほぼ休みなく毎日出ることになった。

また、技術研修は例年より報告書の時間を大幅にとるということで例年より点数が悪い…

特に会社の下請け会社と一緒に研修をするのだが、下請け会社に技術点を負けると示しがつかないということで、裏でカンニングを横行させるという本末転倒なことをさせていた。

技術者は本来技術を売っていくものなのに、その技術に時間を割かず、洗脳に時間を割き、技術の育成に手が回らず、上に示しがつかないのでカンニングさせる…

この日々を経験して、研修の終わりにはもうやめようという気持ちになっていた。

途中から何にもやる気がなくなり、研修の最後には、技術点最下位、報告書点最下位付近

総合点はしたから4番目という結果だった。

もう辞めようと思っていたら、辞めるなと説得が…

「三年は耐えろ」という新卒の通説を当時は信じていたため

配属されてから考えようと思いとどまり、僕は配属されることになった。

 ブラック企業での出来事3をそのうち書きます。

ブラック企業での出来事1

唐突ですが、ファーストキャリアでブラック企業に入社しました。

ブラック企業で得たこと

  1. 上司との報告や相談の大切さ
  2. 自分勝手に生きること
  3. SIerは、人間の働く業界ではないという実感
  4. 無理はしすぎては良くない、死にそうになったら逃げる

総称して,コミュ力という抽象的な言葉で表されるものだ。

僕は、社会人になって「生産性」、「コミュ力」という二単語がとても嫌になった。

聞いているだけで胃がむかむかしてしまう…

社会人としてファーストキャリアというものは、重要だと思う。

経験をすることに対して,初めてのことは基準になるからだ。

入社までの経緯

2014年4月僕は、某有名SIerのパートナ会社に入社した。

入社の前に僕はとても落ち込んでいた。

なぜなら、行きたくなかったからだ。

もともとITでもWeb系を志望しており、ずっとWeb系の会社に入社したいと考えており、就活でもWeb系ばかり受けていたからだ。

今考えると、当時の僕はとても就活のアプローチが下手だった。(詳しくはそのうち書こうと思う。)

そんな就活を続け、Web系に全滅…

大手SIerの学内推薦を受けるも祈られる…

最終的に滑り止めで受けた中小企業2社しか内定がないというのが,当時2013年5月の話だった。

今から考えるとまだ幾らでも行動しようがあったのに,心が折れてしまい。

それから二ヵ月就職活動を続けても、どこからも内定が取れなかった。

ただ、入社に当たって面接時に、どんなキャリアを描けるのかという質問をし、配属時からがっつりコーディング(プログラミング)をさせてくれと約束を取り付けたのが唯一の決定打となった。

入社の前に 

入社前からブラック企業というのは同期や某掲示板で聞いていたもののそれだけ仕事をさせてもらえるなら力がつく!

院の研究でも毎日大学に行っていたし、やりたいことならいくらでもできるだろうと考えていた。

それは考えが甘かった。

 ブラック企業での出来事2をそのうち書きます。

母について考える

実家に帰ったときはどうも毒づきかたが増してしまう。
すみません。でもなにか発信しないと精神状態保てないんです。

実家に帰ると両親の問題に直面する。

僕の人生の足を引っ張っているのは母と言って過言ではない!

と思っている。

息子の僕が言うのも可笑しな話だが、父と母は育った家庭環境も親戚関係も複雑だ。

なので、頼るところがないという八方ふさがりの環境にいる。

今回は母について書いていこうと思う。

母について

・韓国の全羅北道という田舎で生まれる。

・小さいころに両親が離婚、ソウルに移り住む

(原因:祖母が統合失調症を発症)

・良くは知らないが兄弟が別々に親戚に預けられてたみたい

・ちなみに親戚は、結構名家?(曾祖父が韓国の歴史の教科書にのる人だったよう。

국가보훈처 대표 블로그 - 훈터 :: 스승의 은혜는 하늘같아서 - 애국지사 춘고 이인식 선생 서거 50주기 추모식을 가다

・名家のおかげで、有名なお嬢様学校に通っていた

・職は、国家公務員で秘書をやっていた

・30歳のときに日本の資産家のもとへ嫁ぐ(このとき親戚との縁切ったみたい)

・親族がとても嫌いらしく、縁を切った。

・資産家と別れる(母31歳)

・父と結婚(32歳)

・僕生まれる(32歳)

・とてもプライドが高くて自分の思い通りにならないと気が済まない。

・性格の問題で、様々なコミュニティーになじめない。

・ギャンブルなどもよくやっていた。

・料理は少しする。

・昔から引きこもりがちだった。

・癇癪持ち

・金使い荒い

・キレるととても暴力的になる

・僕が10歳ごろから母(44歳)に統合失調症の気が現れる。

・46歳の時に日本人に帰化

・僕が13歳の時から引きこもりになる。

・僕が18歳のときに事件を起こし、統合失調症と診断され入院(母(51歳))

・母52歳、54歳のときに乳癌発症

・現在、58歳で家で老人のように部屋から一歩も出ずに療養中

 

母のことを書くとため息しか出てこない

小さいころから自分以外の人間をこけおどしにして罵倒するということをよくしていた。

それは、夫である父や息子である僕に対してもそうだった。

父には、「あなたは何かがおかしい」、「あの子(僕)できそこないなのは、あなたのせいよ!」とよく言っていた。

僕が何か失敗をすると「私を困らせたいんでしょ!!」、「あなたみたいな子ども生んだのが間違いだった。」、「あなたは、何度も同じ間違いをするから犬と同じで叩いて体で覚えさせないと覚えないのよ!」いまだによく浴びせられた、罵倒だと思う。

小さいころは、僕は母の機嫌を取ることで一生懸命だった。

それでもやってもやってもできないことが多かった。

そのたびに母には殴られてた。

ただ僕が手がかかる子というのも事実で子どものことから病弱でよく、入退院を繰り返していたし、僕が広汎性発達障害(以前の日記より)ということもあってよく失敗する子だった。

なので、育児に疲れていたというのもあると思う。

僕が幼いころから、僕の面倒をよく父に押し付けて、パチンコに勤しんでいた。

僕が小学校に上がると、家をよく空けて、毎日のようにパチンコに行っていた。

父に聞くと当時、貯金が1/3までに減らしたらしい。

パチンコで負けるたびに父に「あのパチ屋は私に勝たせないから文句を言いに行ってこい」ということをよく聞いていた。

だが、勉強面は教育ママで、良く昔から勉強させられていた。

ただ、結構行き過ぎていて、90点ほどの点数でよく怒られたのを覚えている。

兎に角テストが帰ってくるたびに怒られると怖かった思い出がある。

さらに外面はよかった。

学校の行事には積極的に参加していたし、小学校の行事によく手を貸してくれていた。

外面は、いい母だった。

また、僕が中学受験することになった時は、なぜが僕以上に勉強をして僕に教えないと気が済まないという人だった。

よく塾帰りに夜中まで勉強させられたし、夜中たたき起こされたりもした。

ただ、自分の教えたところができなかったりするとすぐ癇癪をおこして、キレる始末。

受験日の朝に僕が気に入らないことをするとよくそんなことするから「今日の試験は落ちる」と罵声は浴びさせれたものだ。

ちなみにこのころから「私の後を誰かがつけている」などをよく言っており、統合失調症の気が出ていた。

僕はそんな母が嫌で、中学からは学校に一切関与してほしくないといった。

幾度ない話し合いにより、母は学校のことに対して何もしないと了承を得た。

すると本当に母として何もしなくなった。

学校の行事や親に見せる書類はすべての僕が父や母の名前を書きハンコを押して対応していた。

ただ、学業だけは別で、僕が英語で落ちこぼれたときに、英語の先生から母がきつく言われたらしく。

母はそれが嫌だったらしく、英語に対しては昔のような対応をしていた。

当時、毎日のように21時まで残されて、大量の宿題を出されていたのもかかわらず、夜中まで起こされて、ひたすら英語をやらされていた。

そんな毎日が嫌で、英語が僕はますます嫌いになって、嫌気がさして、答案を白紙で出すようになった。

母は癇癪を起し、よく先生には呼び出された。

たび重なる面談の結果、父や先生に押してもらい僕の勉強には一切口出ししないという了承を母から得た。

すると母はもう生きがいが無くなったのか、部屋に引きこもるようになった。

毎日、家事もしない、昼夜逆転をする。

そんな生活を4年間続けた。

このときに、精神状態はさらに悪化、「誰かが私を監視している」といい、家のガラスすべてを布で覆い始めた。

引きこもりを始めたころから僕は医学書で母が統合失調症の初期症状であることを調べ父に病院に連れて行ってくれと頼んでいたが、父は聞く耳を持たなかった。

さらに毎日のように酒におぼれ、アル中になっていた。

僕は当時受験勉強をしながら、どうにかして母を病院に入院させようと病院を回って、病院を受診する手続きまでした。

だが、父は「お母さんはゆうこときかん!」というだけで僕がやった手続きをすべて無駄にした。

そんな生活も僕が大学進学をするときに終わりを告げた。

母が私も家を出ると言い出したのだ。

母は自分の気が済むように僕の生活をコーディネートしたかったようだ。

借りたボロアパートも気に入らず、買っても家賃倍のマンションを借りて僕に住まわせようとした。

僕がいうことを聞いてくれないから、僕の家の合鍵を買って作り僕の部屋に勝手に入るようになった。

僕はそれが嫌なのと家の経済状況を知っていたので、必至で母を福岡に返そうと不動産屋へ交渉し、解約しようと思っていた矢先、事件が起きた。

母が高速道路で事故を起こしたのだ。

それもなぜか鹿児島で、車を高速道路でぶつけたのだ。

そして警察に精神状態おかしいことがわかり父に連絡が言った。

そのときになって父はようやく、母を病院に連れ言ってくれた。

事故の後処理や、マンションの解約費用や家出中の費用などもすべて含めて200万ほどかかったらしい。

僕は、大学の1年の後期から学費だけでなく全て自分の稼ぎでたべていかなければならなくなった。

そして大学2年のときに母が癌になった。

父からは、勝手に奨学金を使われた。

金がないと父が日に日に疲れていくのがわかった。

父からは、兎に角自分で何とかしてくれと言われた。

僕は週6でバイトをして、深夜勉強するという生活が始まった。

そこから母は変わらず、自宅療養を続けている。

母は病気になって丸くなった。

そして弱弱しくなった。

僕に対して、罵倒ではなく、縋るようになった。

そんなゲンキンな母が死ぬほど嫌いだ。

母が癌になったとき、まず出た感情が、やっと母がいなくなってくれるという嬉しさだった。

でも、結局は二回の手術に耐え、生きている。

僕がその分必至で頑張っていたのも知らない。

母からの電話を今でも気分が悪くて取れない。

癌の時母から、僕が心配していると思って父の電話から電話をかけてきたとき、「私は大丈夫だから心配しないで」と一方的に言われたことをよく思い出す。

僕は最低な息子だと思うが、心配なんて微塵もしていなかったし、むしろなんでしぶとく、生きるんだ僕の人生の足をどれだけ引っ張り続けたら気が済むのだ、という感情しか湧いてこなかった…

僕は母に対しても父に対しても最低な息子だと思う。

でも母の面倒は見たくない。

生んでもらって育ててもらってそれは身勝手だろうと思われる方も多いかもしれないが…

ただ、子ども将来をつぶし、足を引っ張り続ける親もこの世の中には多いということを知ってほしい。

父がいなくなったらということをいつも考える。

母をどうやって面倒見ればいいのだろう?

 僕は母と生活した間違くなく、母を殺すと思う。

僕は、殺人犯になりたくない。

 母には、消えてほしい。

韓国に戻ってほしい。

祖母が療養している田舎で、ひっそりと余生を生きてほしい。

仕送りはできる限りする。

でも僕の人生にもう関わらないでほしい。

僕の愚痴は以上です。