今日も頭がイタい…

うん…、どう転んでも人生ハードモードみたいです……

何が悪かったのか考える(セカンドキャリアの反省軽くします。)

最近、ぼんやり考えてしまうのが、セカンドキャリア自分のどこがいけなかったのかということ

そのうち、大きな反省の記事を書こうとは、思うのですが、思いつくままに…(減給前の業務で何が悪かったのかを考える。)

  • 差別化を図ろうとして、手を広げすぎた。
  • 適切な質問ができない
  • やっぱりミスが多い

自分が思いつく限りこの三つに集約される気がする。

差別化を図ろうとして、手を広げすぎた。

前にも書いたが、僕は別の人とは別のスキルをつけることを人と差別化を図るという選択肢をしてきた。

なぜなら、大抵の物事で同じ土俵に乗っかってしまうと成長が遅くて負けるからだ…

今まで、得意なことや特にしたいことは、事前に先回りをして勉強しておくという事をよくしていた。

そうすると、いざという時の吸収が全く違うという事を肌身で感じているからだ。

今回は、それがあだとなったと思う。

業務以外の時間で業務内容をあまり勉強していなかった。

たとえば、業務では、LAMP環境が主だったのだが、家ではLAMPの勉強はあまりしていなかった…

業務が10:00-19:00だったのだが、業務の内容に繋がりやすい勉強は、通勤の時間30分と9:00出社で毎日1時間の計1.5時間して勉強していなかったのだ。

そして、21:00まで2時間の残業(見込み残業内に抑えようとすると毎日21:00が平均退社時間となる)を行い帰るという日々だった。

家では、夜に帰り着いてから2時間ほどUnityの勉強をして、次の日,5:30起きで2時間ほど、Node.jsの勉強をしていたので、今振り返るとこの4時間を更にLAMP環境やRailの勉強充てるべきだったと思い、さらに睡眠時間をもう少し確保するべきだったと思った。(Nodeは勉強の途中で減給されたので以来止まってしまった。)

単純にナルコレプシで辛いという事がかなりあったが、毎日5:30の睡眠ではやはりだめだと思った。

更に休日は、ほとんどUnityに費やしていたので、休日に業務の勉強をあまりできていなかった。

ま~今後もUnityや別の勉強の比重を下げる気はないが、次は業務が安定するまでは、平日に別の勉強をすることは辞めようと思う。

適切な質問ができない

これは、広汎性発達障害の特徴と言ってしまえば、元も子もないのだが…

やはり質問の量が多すぎたのだと思う。(ナルコレプシで頭が働いてないということも大きいが…)

兎に角、わからなことだらけだったので、上司に質問の許可はとったものの質問の回数が多すぎた。

また、文面での支持に抽象的なことが多かったため、なんどもそこをつめるということ何度も上司に行ってしまった。

難しいが、やるにしてもスプレッドシートに一覧化や図はパワポなどを用いて、チャットで投げるという事が必要だと思った。

また、最近、ある会社の面接でベテランエンジニアの方に言われたのが、「エンジンは理系より文系の方が向いているだよ。なぜなら、仕事で求められているのは、理解じゃなく成果のものだから、何で動くがわからないけどとりあえず、書いてみて出来ましたってほうが向いてるんだ」といわれ、僕はまさにその理系の方の典型で仕組みがわからないから考え込んでしまう。

ま~僕の場合、理解できないものは書けないという性分なので、ほんとに何を書けばいいのかわからなかった…

で、その文系スキルをつけようとしても無理なので、そこの理解に帰宅後や早起きでの勉強を充てるべきだったのである。

やっぱりミスが多い

これも自分の性分だから仕方ないが…

解決方法が見つからない…

前にも書いたが、やれることはやべてやったからだ。

それでも、やはり余裕を持ったスケジュールリングをして、前倒しにコードを書いて何度も自己レビューはしないといけないと思う。

反省ってこんなところかな…

結局、中二病サブカル系の延長線上の価値観なんですよ。

就職活動は、自分の人生を見直す期間だと思う。

僕はすでに三回もやっていますが…(それもわずか二年余りの期間で…)

自分を考えていくうちに、結局「中二病サブカル系」が根底にあって生きているのだと思います。

なんだかんだ言って自分は特別な人間だと思いたい。

今まで、人生について悲劇のヒロイン症候群としか言えない日記を書いてきたわけですが…

muripolife.hatenablog.com

muripolife.hatenablog.com

自分の人生の不幸に対して驕り高ぶっています。

たとえば、企業の説明の経営者や就職してから上司の苦労話に対しても、

「その程度か小僧」という中二病的発想しか出てこない…

おかげで心には響きません。

たとえば、大学在学中に散在して借金を作った話や仕送りがなかった話をされても、僕は中学生のときに父の会社は倒産したし、大学になってからは親の援助なしでやってきたわけだし…

上司に説教で、「顧客と絡むと、凄い理不尽目なこと多いんだぞ!」と言われても、「そんな理不尽な経験、もう人生で幾度となくあるわ!」と思い、「だてに差別されたことないんだよ!」と真剣に聞くふりをしながら心の中で思ってしまう。

不幸体験にプライドを持ってしまっているのである。

自分でも思うが、「イタい」、「独り、地獄のミサワ状態」である…

自分は価値がある人間だと思いたい…

父に学歴コンプを刷り込まれたとか以前の日記で書いてましたが…

凡人になりたくないっていうのがあるんですよ。

だって、今までいろんな人から虐げられてきて、普通や普通以下なら惨めじゃないですか…

小さいころから、後発で始めた人にすぐ抜かれる…なんてこと多くて…

あ~僕ってなんて使えない人間なんだろと何度思ったことか…

兎に角、自分の価値をあげてお前らみたいな凡人とは違うんだ!今まで馬鹿にしてやつ見とけよ!

とか心では思っています…

方向性

そんなんで、人とは違うということに恐らく人生の大半の労力を割いているのだと思います。

人生の分岐点でも

  • 中学受験:みんな運動はできないけど、頭がいいと思われたいから私立の中学に行く

  • 大学受験:英語はできないけど、それはそれで名のあるところ入ったら凄いって思われるからいい大学を狙う

  • 院試:やっぱり学歴上げて、少数派になりたいから院を受ける

  • 就職:学歴がついてもコンプレックスを捨てきれず、自分の能力に付加価値を付けたいからエンジニアになる

そして、選択もみんなは一番に憧れるけど二番や三番の方が、知名度は劣るが実力あるみたいなんかかっこいい。

「知る人ぞ知る名店」的な発想で今でもいるんです。

まさに、「中二病サブカル系」です。

やっぱり社会人になっても…

一社目のブラック企業で、普通すぎてこいつらヤダと思ってしまった。

上から下まで、みんな「大学時代勉強なんて一ミリもしていなかった。勉強なんてしたって意味あるの?」って人しかいなかった…

で、無理だと拒否ってしまった。

二社目は、「なんで、干されるんだよ!」って、実は心の中で思っています。

ここでは使えないってレッテルを張られてるけど、別の会社や別の分野だったらピカイチなんだ!

絶対、必要とされるに決まっている…

なんて、実は心の奥底で思っていたりします…

こう思わないとやってられない気もしますが…

この日記イタいな…と何度読み直しても思います。

ブラック企業での出来事5

一社目のブラック企業での出来ことは今回で終わりである。

人物説明

A: プロジェクトの責任者

B: プロジェクトの責任者補佐

C: 経営者

12月

仕事を取り上げられる…

洗脳報告書の進捗が悪いので、少しやりがいを見出していた仕事を取り上げられた。

そして、洗脳報告書だけに専念しろとお達しが…

詰め詰めの日々

とにかくAに毎日詰めれた。

ほぼ毎日会議室を取るように言われ、洗脳報告書の検討会という名の人格否定が4~5時間あった。

毎日、朝から晩まで洗脳報告書を書き、夕方から検討会がある。

毎日、毎日、狭い会議室で4~5時間人格否定をされる。

僕の文章の「文字に責任がない。」、「この改行や空白の意図は?」から「社会としての責任感がない」などの言葉を心がボキボキに折れるまで何度も何度も言われ続けた。

取調室で拷問を受けるのと同じである。

そして退職の申し出

「病院からもう仕事続けるのは無理ですね。というかそんな会社一刻も早く辞めるべきです。」と言われた。

そして意を決して申し出た。

結果、3度話をしました

1度目の申し出

Aに話すと、「今すぐ会社から出ていけ、12月の給料も払わない。寮からも今すぐ出ていけと」言われ、脅される…

A「そんなまともな能力もない君を雇ってくれる会社はあるの?辞めるなら3年は働けよ!」そういわれた…

A「そしたら、一人前にエンジニアとしてやっていけるぞ」とも言われた。

今考えると真っ赤な嘘である。

いや…正しくは、嘘じゃない…

SIerのエンジニア(SE)としては、十分かもしれないが、僕がやりたいことは違う…

と心の中で思っていたが、言えず、家も貯金も収入もない中、断念せざる負えないことに…

今になって考えると、おかしな話である。

というか、今すぐ出ていけの場合、即日解雇になるので、退職金でるじゃないかと思ったり…

2度目の申し出

A,Bに金曜の検討会の際に、「お前は人としてダメだから、土日で人格なおして来い!」と言われた。

で、人格を治すのが不可能なので、頑張って僕はダメ人間だと説得し、もう治せないので二度目の退職を申し出た。

すると、Aからそんだけ理詰めができるから、「お前はできる!」と手のひらを返され、丸め込まれた。

3度目の申し出

それでも嫌で、三度目の申し出をしたところ、大丈夫だからと言われ続けた。

医者から辞めろと言われたことを伝えても、そんな時期誰にでもあると言われた。

そして、思った。

洗脳報告書を書き上げて安心したところで飛ぼう!

そして、洗脳報告書を書かきあげ、連絡を絶つ…

連絡を絶つ決意

「洗脳報告書を書き上げて安心したところで飛ぼう!」と書いたが、そんなに簡単ではない…

とにかく怖かった。

毎日不安に駆られて、血便がとまらなかった…

毎日深夜に、荷造りをし、コンビニまで荷物を運び何度も小分けにして実家に荷物を郵送した。

家具は、土日ですべて売った。

飛ぶ、前も友人の方に片っ端から励ましもらった。

ちなみ前日に寝て朝起きたら、体が自然にスーツを着て準備をしてしまうと思った。

そこで院時代の友人に付き合ってもらい、明け方まで付き合ってもらい、明け方に寝るという状況を作ってもらい、頑張って決意をした。

そして、起きると昼だった。

もう決心は着いた。

寮だったので、カギをいつ開けれるかわからないので、着替えを持ち2~3日逃げた。

ちなみに安否確認のために連絡が途絶えた寮生は部屋をスペアキーを渡され部屋を勝手に開けられるという風習があったので、逃げた。(過去に自殺があったからだということを噂で聞いた)

そしてやっと辞められた…

余談

詰め詰めの日々に入りストレスがmaxだったのか、飯が何も入らなくなり、84kgの体重ももとの70kgまでひと月余りで戻った…

1月

実家に帰った。

実家に会社からお宅の息子さんどんな育てかたしているですかというお手紙が仰々しく届いた。

そして手紙の内容からだと、僕が上司に相談もなしに勝手にプロジェクト投げて逃げたことになっていた。(逃げたことには変わりないが、仕事は全部取り上げられていたし、上司には何度も相談したわ…)

離職票は、なかなか送られてこず、苦労した…

ちなみに友人のつてで住み込みのバイトをできることになったので、関東に戻ることにした。

そして、転職活動を始めたわけである…

総括

実は、書くとまずいことは、まだたくさんあった。

だが書くと元同期を傷つける結果となるかもしれないので書けない…

さらに、その会社が反社会的勢力とも繋がっていると噂で聞いたので、怖いので伏せさせてもらう…

でも僕は、この恨みをたぶん一生忘れないだろう。

上司のやっていることは、犯罪者と同じだと思うし、会社の経営者は、A級戦犯と同じだと思う。

恐らく、何百人何千人(離職率から千はいっているんじゃないかな?)もこの会社のせいで、鬱になったり、自殺を考えたりと人生を狂わされただろうと思う。

だが結果…

良かったこともある。

  • 社会人としての動き方が学べた。
  • いざという時の動き方が身についた。
  • 礼儀作法は特によかった。
  • 人生の新しい選択肢を選ぶことができた。

何だかんだぼろ糞書いているが、僕ができないことが多すぎたのも事実だし…

それから一年後の現状も似たようなものなので、先天的に僕は社会不適合者だと思う。

だが、こんな会社潰れろと何万回も思って、今でも思い続けているが…

でも、社会から必要とされているから残っているのだ!

これは紛れもない事実だと思う。

正直、両親に送られてきた手紙の内容も世間に曝して会社を潰してしまいたい…

だが、僕はそこまで会社を潰すことに労力も割きたくないし、責任も負えない…

なので、これはただの根も葉もない愚痴で終わらせてください。

何度も日記で書いてますが…

ただただ、共感してほしいから書いてます。

最後に僕の結論を書きます。

僕の結論

ブラック企業で働くのは臨死体験と同じ!」経験したら価値観やレベルは上がるが…

しないほうがマシだし…

もしそれで死んでしまったらもともこもない…

これが最終的結論です。

ブラック企業での出来事4

8月

OJT担当に見捨てられた中、チームの責任者の上司からよく怒られるようになった。

プロジェクトの説明

ちなみに僕がいたプロジェクトの編成は、何チームあるか忘れたが、確か4チームぐらいだったと思う。 全体の総括のプロジェクトリーダーがおりその人が半分(2チーム)、サブリーダーがもう半分(2チーム)で運用されていた。

これからよく出てくるので、プロジェクトリーダーをA、サブリーダーをBとしよう。

僕のチームは、Bが見ており、僕の報告書や洗脳報告書は、AとB両方が見るという仕組みだった。

仕事で詰められ…、洗脳報告書で詰められる…

まず、SIerの世界の中に詰めるという悪習がある。 これの説明は以下を参考してください。

cybozushiki.cybozu.co.jp

「なぜできない?」、「君は普通のSEの1/4人月もまともにできていない。というかで戻り多くてマイナス人月なんだよ!」とよくいわれ、さらに洗脳報告書の出来も同期の中で最低だったので、A,Bから週2~3で詰められた。

あまりにも態度が悪いと、Bからもこのとき見捨られ始めた。

9月

洗脳報告書の新人提出が、9月末に迫っていた。

Aからの詰めが酷く、毎日のように連絡がきた。

対面で詰められないときは、電話越しに3時間詰められたことも何度かった。

で、とりあえず書くだけ書いて上に提出した。

ストレスでの体調の変化

社会人になってからというもの、食生活は前より整っているのに、とてつもなく太った。

具体的には70kg→84kgまで太った。

食べている感覚はないものの、睡眠を制限され、毎日のようにルーチンワークと詰めばかりの日々で、ストレスがとてつもなかったと思う。

僕だけでなく、同期にもそれが表れていた。

  • 激太りする人
  • 強烈な肌荒れをする人
  • 風俗にはまる人
  • 疲労臭のすごい人
  • 白髪だらけになる人

などなど異様な光景だった…

10月

洗脳報告書の審査結果が返ってきた。

評価は、同期の中で欠2

評価なんてどうでもよかった。

ただ、仕事で少し、やりがいを感じることがあった。

内容はしょうもないが、仕事の一時的ツールだが、プログラムやアルゴリズムを書かせてもらえることになったのだ…

いま考えるととてつもなくしょうもない仕事なのだが、100%いやだった仕事に少し、光が見えた気がした。

そんな矢先の11月に洗脳報告書の経営者の品評会があった。

ちなみにこの経営者(社長など)とてつもない老害

面倒なのでこいつをCとする。 今まで書いていなかった。 この会社がブラックである所以はこの経営者によるものだと思う。

  1. 内定者式での男女差別
  2. 国立大学出身は、私に頭を下げろ
  3. etc

内定者式での男女差別

ほんとはここで内定を辞退するべきだった。 内定式のさいに、Cが新人の席に回ってくる。 第一声が… 「最近、女性にお酌をさせると、セクハラになるらしいんですよね。でも私は違うと思うんです。女性はお酌をすることなど接待をすることも仕事のうちだと思うのです。~(割愛)~」的なことを行って言った後は新人の女性社員にグラスをお酌しろと差し出す。 これがCとのファーストインプレッションだった… このときに、やばいぞこの会社と思ったが、その時は自信を失い意気消沈していたため、どうでもよくなっていた。

国立大学出身は、私に頭を下げろ

実は新人研修のときに、Cとの懇親会があった。

懇親会は、ただ10時間Cのパワハラに耐えるという企画

  • 右翼思想の話に始まり、韓国の痛烈な批判(2時間)
  • 自分の生い立ちの話(1時間)
  • 会社のマインドの話(5~6時間)

などを刷り込まれた。

Cは相当な学歴コンプのようで、「国立大学をでた子は優秀と聞くのに、なぜうちに来る国立大学出身の子はみんな使えないんだ!税金を多く払って君たちの授業料を多く賄っている私に謝ってください!」といわれ、国立大出身の子が、Cに一斉に頭を下げるなんてことがあった。

その他の逸話はあるが…

伏せます…

11月

品評会

ただただくだらない内容だったので、適当に過ごしていた。

すると上司から呼ばれ、「君どういうつもりなの?」とキレられた。

そんな、嫌なことしかなかったのでもう書きたくない…

初ボーナスで減給

新人の中で2人ボーナスが減給になった。

品評会の横暴がたたり、僕がその一人になったのだ。

それも僕は、Aの更に上の上司(会社で3番目に権限を持っている人)の面談つき

Aの更に上の上司(会社で3番目に権限を持っている人)をDとする。

それも横暴に流した。

D「君やる気あるの?」

僕「ないです。」

D 「君は大学院卒で他の同期より人生経験豊富だろ。何かその人生経験を生かせることはないの?」

僕「なにもありません。(心の声:考えなくて、ただパワハラを受けるだけで、飲みでしか仕事を取ってない会社でできることはありません)」

と返して呆れられた。

洗脳レポートの締切

そんな中、洗脳報告書の締切が年末となり、Aから最高に詰められる日々が始まった。

転職を考える

そういう経緯で会社のことはどうでもいいと思っていたので、転職サービスに登録した。

ブラック企業での出来事5に続きは書きます。

ナルコレプシの近況報告(薬を服用して)と現状報告

薬を服用し始めて少し感覚がつかめてきたので報告する。

モディオダールを服用して

箇条書きでまとめると

  • 強烈な眠気はなくなった
  • 僕は効果ができるまでに二時間ぐらいかかる
  • 寝不足で服用すると激しい頭痛で頭がふらふらする。

以上である。

強烈な眠気はなくなった

言葉の通りで、眠気が我慢できるのだ、今までは、気絶するほどの強烈な眠気が一日に何度も襲ってきたが、おおむね頭がクリアなことが多い。

ちなみに少し頭痛が起きる。

僕は効果ができるまでに二時間ぐらいかかる

どうもそうみたいだ。

睡眠不足の中服用して、薬が効き始める二時間寝てしまったことがある。

その後はずっと起きてられる。

寝不足で服用すると激しい頭痛で頭がふらふらする。

頭痛がとまらないこともあるし、頭の中にいろんなものがよぎるというか、いやなことがあったらいろいろな最低な状態を考えてしまったりする。

で、さらに頭痛が酷くなるといった感じである。

ちなみにこの時も眠気は我慢できる。

早い話しっかり睡眠をとって使えということですな。

転職活動について

ただいまいくつかの企業からオファーを頂いており、話が合い次第という感じになっている。

オファーを頂いても、すべて合わない可能性があるので気は抜けないですが…

とりあえず、12月の半ばには決めたいです。

以上近況報告を終わります。

父について考える

家を出て父と喧嘩することが増えた。

別に仲が悪いわけではないが…

母もだが、僕の他人から指摘される歪んだ価値観は父の影響もかなり受けている。

父について

  • 戦後すぐ福岡で生まれる(いわゆる生粋の博多っ子だ)
  • 6人兄弟の5番目として生まれる。(三男である)
  • 小学生のころからアルバイトをしていたらしい(戦後すぐの話なので、その頃は小学生でバイトをしていたらしい)
  • 高校時代は不良で、高校卒業後、即就職したみたい。
  • 会社員時代は、高卒でありながら、某有名大学の派閥の企業に入り、尋常じゃないほどの学歴差別を受けたみたい
  • 40歳前後まで3度の転職をし、全国を転々、40を境に地元福岡に戻り、起業する。
  • 44歳母と出会い。即結婚
  • 45歳のとき、僕生まれる
  • 55歳のとき、無理な食生活がたたり狭心症や血行障害を患う
  • 60歳のとき、自分の会社が倒産
  • 65歳のとき、血行障害で倒れ、緊急手術となる
  • 70歳現在、統合失調症の母の介護をしながら、年金で細々と生活中

人格

  • とにかく、新しい文化を否定する。(幼いころアニメを見ても、マンガを読んでも、ゲームをしてもすべて「そんなバカチンなものしてどうする!」と呆れられた)
  • 電子機器などにとても弱い(小学校のころから家のPCの設定や家電系はすべての僕がやっていたというか僕しか使っていなかった)
  • テレビはニュースしか見ない、でも教養ないから深堀ができない。(中高時代からニュースなどの事柄の歴史的背景について意見を求めたり、話しかけたりしても、俺は知らんと言われるだけ、会話をしても生産性ない…)
  • 昔の価値観でずっといる。(子どもは親のために働くものと散々言われた)
  • 食生活は、酷い。(50近くまでジャンキーなものしか食べておらず、週のほとんどを飲み会で過ごす…)

家族構成

  • 父(僕の祖父):病弱でまともに働けない
  • (僕の祖母):パートに追われる日々
  • 長男:中学卒業後即自動車会社に就職するも不慮の事故で亡くなる
  • 次男:一家唯一の大卒、高校も大学も夜間で自活しながら頑張り某有名家電メーカーに就職するも家族に嫌気がさし、婿養子に入り、縁を切る。
  • 長女:中学卒業後、すぐ嫁ぐ
  • 次女:中学卒業後、すぐ嫁ぐ
  • 三男(父)
  • 四男:よく知らないが、高校卒業後姿を消す。現在まれに連絡が来るらしい。

母まではいかないが、父に関してもため息がとまらないことが多い…

世間の人ができることがほとんどできないのだ…

いまだに連絡は電話と郵便(最近やっとCメールを見れるようになった)

先日まで新しい住所を教えるだけでも、漢字がわからんから紙で新しい住所を書いて郵送で遅れといわれた。(昭和ですか…)

いまだに一人で戦後高度経済成長期の日本を生きている。

生きた化石である。

仕事が美徳、子は親や家族のためにすべてを捧げるものという考えが強い。

上にも書いた学歴差別を受けたことに対しての学歴コンプが酷い。

昔から、あいつは何大卒だからバカだということが発言が多かった。

昔からそれも聞いて、父に認められたいという気持ちが強く。

少しでも学歴のいい大学に行きたかった。

父に植え付けられた学歴コンプ

ちなみに父が強烈な学歴差別を受けた大学は、私立最高峰のK大学なのだが、大学受験の時にあそこを受けたいというとても嫌がられたとの今でも覚えている。

なので私立で有名大学は父の中でK大学ではなく、W大学一択なのだ。

ちなみに国立大学至上主義で、早慶(もう面倒なので出します)以外の私大は認めてくれなかった。

高校時代の三者面談で、息子さんは英語国語に致命的なハンディがあるので、国立は辞めて、早慶を目標にして、無理だったら上智や理科大にしたらいかがでしょうか?

英語だけならまだ間に合うかもしれませんと再三言われた。

というか、早慶以外は学校で推薦があり、数学科を志望しているのはお宅のお子さんだけなので、推薦枠あげますよと言われても、父はこの子は、国公立か無理なら福大(福岡の私大)にやります。(あと早稲田だけ考えないことはないですが基本国公立で…)

の一点張りだった。

早い話、お金がないと学校にも息子にも言いたくなかったんだと思う。

そんなこんなで、僕の大学受験の選択肢は、早稲田か福大か国公立しかなかったのだ。

ちなみに国公立は父の中で神格化されていた。

国公立なんてお前が受かるわけないと言われ続け、笑われた。

アホなことを言うのは辞めて、福大に行け!と再三言われた。

ちなみに福大以外の地元私大はダメ!

「福大なら家から通えるし、授業料は死ぬ気でバイトして払って、就職も福岡でせれ!」

とよく言われた。

いくら模試の結果を持って行っても、先生に指定校推薦を進めれても(実際3,4回勧められた)お前はバカだからダメ、寝言は寝ていえと言った感じだった。

ちなみに大学受験の結果は、地元から割かし近い、国立に受かった。

偏差値52,3のごく普通の中堅国立理系である。

ちなみにだが受かったら受かったでいろいろ言われた。

「○大は、お前みたいな中途半端な人間にはお似合いたい!」

と言われた。

ちなみにこれは中学受験の時も言われた。

「○○中学は、お前みたいな中途半端な人間にはお似合いたい!」

ま~当時心身ともに疲れ切っていたので、言い返す気もなかった。

やっと父が認めてくれたときが院の時である。

院試は、旧帝大を受けた。

そのときも、父からは、実家に帰ってゆっくり就活するか、引き続き自分で何とかするなら院に内部進学して、ゆっくり考えろと言われた。

結果、合格した時は、単純に褒めてくれた覚えがある。

ま~すぐ授業料や生活費は自分で何とかしろよと言われたが…

でも、入学金は出してやると言われた。

 他の親とは違う価値観

父は、戦後すぐの生まれの、流行り物や電子機器が何もわからない堅物、母は、韓国人のお嬢様育ちという環境で育ったので、幼小中通して、同級生と話が合わなかった。

というか流行りのものなど情報はすべて同級生やテレビ、自分で本や雑誌などで学んだ。

例えば、小学校の頃に流行っていたものはすべて友達伝いに知ったし、大学受験などの情報や勉強法などは自分で手探り探した。

ちなみにこれがあったから、院試や就活の時に自分から積極的に動くことができたと思うのだが、高校時代のとき友達が親とメールでコミュニケーションを取ることに対し(今はLINEかな)、うちの親もできたらなと何度思ったことか…

また、父は昔の言葉をそのまま使っていたので、それでもかなり苦労した。

「ベルト」のことを「バンド」と読んだり、酷い時には、差別語認定されている言葉を平然と公共の場で使う。

ポラロイドカメラ」を「バカ○ョンカメラ」と言ったりしていた。

ちなみに「バカ○ョンカメラ」は妻が韓国人なのによく現在まで平気に使っていると思う。

公共の場で大の大人が平然と差別用語を使うことに対して、常識がないと感じ、何度も父を叱った覚えがある。

 実家を離れてからの父との関係

大学時代から父とよく経済面でよく言い合いをするようになった。

大学進学当初は、「何も心配せんでいい。卒業のことだけ考えろ」と言われたが、心配なので第一種奨学金を取った。

見事に不安は的中し、2か月後には「授業料は自分で払ってくれ」、一年後には、「何とか自分で生きてくれと言われた」

ま~大学一年の時の仕送りも、僕名義の学生ローンで借りたお金の余り、バイトを始めてからは、仕送りという名目で僕のバイト代をそのまま振り込んでいただけだったので、変わらないのだが…

何度も喧嘩した。

僕も悪い、大学進学時に授業料など金回りをきっちり調べて、授業料免除を出せばよかったし、大学に進学してから一年半は腐っていて単位を落としまくり、授業料免除の申請が出せないレベルになっていたからだ。(反省して、院からは授業料免除の申請をだした

教員免許取得に関してはとく口論になった。

「無理して留年するかもしれないのに単位取らんでいい。卒業だけしてくれ!」

と何度も言われたが、田舎の国立で就活に多大な費用がいる状況で、毎日バイトとゼミの勉強で公務員試験などの勉強をしている暇もない状態でどう将来を考えろいうのだろうか?

という状況だった。

父は、「卒業だけして、何とかせれ!」と言うだけで金銭的に支援はほぼなかった。

 詳しくは、学部の入学金最初の前期の授業料、院の入学金と、ほんとに死にそうな時だけ仕送りをくれたので、のべ100万程度は支援してくれたのだが、逆に親が厳しい時に学部時代から親に100万ほどあげている(勝手に口座から引き落とされたというのが正しいのだが…)ので、ほぼ自活していたのだと思う。

 社会人になってからの父との関係

院を卒業して、IT系の就職をしてからというもの、まず一言目に「俺は、お前が何をやっているのかわからん!」とただ言われるようになった。

それに対比するように僕も「父さんに僕の仕事内容を伝えるのは、原始人に経済の仕組仕組みは話すようなものだから無理」と返すようになった。

それでも親としては気になるようで「どんな仕事をしているのか、実家に帰ってきたときに教えてくれ」と言われ、僕が説明する準備をしていっても説明しようとしても「もうよか!、俺は何も言うことがない」と言われるだけで最近は実家に帰っても平行線の日々である。

 まとめ

父に関しても母に関しても愚痴を散々に書いたのだが、父に関しては、かなり感謝している、よく金のことで喧嘩するのでだが、いやいや言いながらよく面倒を見てくれていると思う。

今回の記事の趣旨は愚痴を言って共感してもらいたいとことが人一倍あるだけなのでただ書いています。

愚痴を終わります。